orlm8のブログ

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キリスト教会に実際行ってみると

実際に教会に行ってみると大変驚く。


始めて教会に行っても新来者はどう扱っていいのかわからない、といった態度で接しられる。
おもてなし、などないのである。
ほとんど相手にもしないでほんの少しだけの社交辞令を述べ、それが終わるとこちらは後は用事がないのでさっさと帰途に向かうしかない。
中ではこちらがそんな気持であることをよそに気の合ったもの同士が集まってあちこちに輪を作り、自分たちのおしゃべりに夢中になっていて、
こちらはそれを見て、感じながら、一人寂しく教会から去るのである。
玄関口に牧師先生が立っている。ありきたりの挨拶を一言二言言うだけ。
あとはこちらもさっさと用事は済んだのだから周りがそう期待しているように家に帰るしかないのである。


これで教会生活が長く続くわけはないのである。
教会は神様のために行くので、人との交流のために行くのではない、とはよく言われる。
しかし私はあの世界は尋常でない、と、いつも感じる。


互いに愛し合いなさい。
こう教えにはある。
しかし中のキリスト教徒同士も、あの人は好き、でもあの人は嫌い、だからいつもの私の気の合った好きなあの友達とだけ交流して楽しんで、他の人はいいからあの人とだけ今日もお話しして帰ろう。
といった風で
あちこちに同好会を作り、自分の会以外の会の人は排除して、全くいないと同然のようにし、排他的な輪を作り、
これがなにがいいのであろうか。
一体誰を愛しているというのか。教会全体の輪など、ないではないか。


理想と現実はかけ離れている。
これが教会の現実である。

牧師先生と信者が裁判で争う悲劇

私は玉川平安教会、に通っていたことがある。
この教会の不祥事にはほとほとあきれ果てている。
東京神学大学で教鞭をとる牧師先生が、なぜあのような振る舞いをしたのか。


教会は牧師先生たちと信者たちが裁判で争ってしまって滅茶滅茶である。血みどろの闘いである。泥沼化している。
私の知り合いは裁判で牧師先生と争った67人の中の一人である。


キリスト教界内でも争い。
どこ行っても争い。
どこも同じだ。


友人たちは教会を出ていったし、献金が激減した、というし、私は他の教会にとっくの昔に移っていて何もなかったが、友人がかわいそうでならない。
それに私自身が全くキリスト教世界から身を引きたくなってしまっている。


もうたくさん。争いは。


友人から争いの内容はつぶさに聞かされたのがつい最近である。
私はもう我慢できなくなった。キリスト教界から離れようと思う。
日本では今は無理である。

キリスト教徒はなぜ人にお説教して歩くのか

キリスト教徒に悩みを打ち明けるといつもお説教をされ、叱られ、たまらない気持ちになる。


人に叩かれた話では、聖書では、右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せ、と書いてある。


友人の裏切りのことを話すと、人を裁くな、と聖書には書いてある。


私の過去のつらい思いをぶちまけると、神様は人知に計り知れないことをなさるものである。あなたにいいと思ってなさったのである。


友人から嫌なことを言われたことを言うと、人は皆、罪人である。あなたも罪を犯すではないか。人を咎めるのはおかしい。


何人からこんなこと言われ続けたかわからない。


キリスト教徒の中には本当に酷い人がいる。
隣人愛だとか、理想はそうだが現実はそれとかけ離れている。