orlm8のブログ

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やっと落ち着ける教会に巡り合い

長い道のりだった。
しかしやっと頂上に向かって歩けている感じがした。
落ち着ける教会に巡り合ったのである。
牧師先生もよかった。


聖書の学びは楽しいし、説教も興味持てた。
今までの運の悪い巡りあわせが嘘のようである。
少しずつ、お祈りも覚えた。
周りも落ち着ける雰囲気だ。


何かが少しずつ変わり、少しずつ動いた感じである。

牧師先生に物申す 

出来事の言葉・説教
出来事の言葉・説教
教文館


全ての牧師先生のことを申しているのではない。


一部の牧師先生である。


私は牧師先生の説教がとても退屈である。


大学の学問はこれがあまりにある種の学問的なものであると、実際社会には役に立たないものであることがある。実際的でない、生活に密着していないものであるからである。
これが一時問題になり、大学で教える学問をもっと実際社会から乖離していない、社会、社会生活、生活、に密着したものにするべきである、といった考えが流布した。


あちこちの教会に通ってみて感じたことは此れと同じことである。
教会のいくつかでは説教があまりに教義的で実際生活からかけ離れていて、まるで前の大学の学問のようである、と感じるのは私だけであろうか。
学問的、といったらいいであろうか。
聖書を大学の学問のように説き明かす牧師先生がいらっしゃり、私はそういった説教はあまり聞きたくなく思う。


教会によって説教はかなり違う。
どういうことなのであろうか。

キリスト教会に実際行ってみると

わたしの信仰: キリスト者として行動する
わたしの信仰: キリスト者として行動する
新教出版社


実際に教会に行ってみると大変驚く。


始めて教会に行っても新来者はどう扱っていいのかわからない、といった態度で接しられる。
おもてなし、などないのである。
ほとんど相手にもしないでほんの少しだけの社交辞令を述べ、それが終わるとこちらは後は用事がないのでさっさと帰途に向かうしかない。
中ではこちらがそんな気持であることをよそに気の合ったもの同士が集まってあちこちに輪を作り、自分たちのおしゃべりに夢中になっていて、
こちらはそれを見て、感じながら、一人寂しく教会から去るのである。
玄関口に牧師先生が立っている。ありきたりの挨拶を一言二言言うだけ。
あとはこちらもさっさと用事は済んだのだから周りがそう期待しているように家に帰るしかないのである。


これで教会生活が長く続くわけはないのである。
教会は神様のために行くので、人との交流のために行くのではない、とはよく言われる。
しかし私はあの世界は尋常でない、と、いつも感じる。


互いに愛し合いなさい。
こう教えにはある。
しかし中のキリスト教徒同士も、あの人は好き、でもあの人は嫌い、だからいつもの私の気の合った好きなあの友達とだけ交流して楽しんで、他の人はいいからあの人とだけ今日もお話しして帰ろう。
といった風で
あちこちに同好会を作り、自分の会以外の会の人は排除して、全くいないと同然のようにし、排他的な輪を作り、
これがなにがいいのであろうか。
一体誰を愛しているというのか。教会全体の輪など、ないではないか。


理想と現実はかけ離れている。
これが教会の現実である。